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いつまで予行練習を続けなければならないのだろう [愚痴]






振り返れば
いくつもの偶然に囲まれて
愛する人
友達と繋がってきたはずなのに
嘘をついて
何度
虚しさ感じただろう

同じ歩幅で
躊躇わずことなく

いつだってそうだった
心許せなかった
強がってしくじって
精一杯だった。

(hello/superfly)

















■もう、いいや




生きることに疲れた。
もう生きるのがいやになったという意味で。


肉体的に疲れたのであれば
休めば回復する。寝れば回復する。
しかし、生きることに疲れたときには
寝ても疲れは取れないし
だいたい寝ようとしても寝付けないことが多い。

よく、「話を聞いてもらうだけでもラクになるよ」って言う言葉を聞くのだが
残念ながら、人と会話するのでさえ、シンドイ。
エネルギーを消耗する。完全に枯渇してしまいそう。




それは無理をしているからである。
興味が無いのに興味のあるフリをして
話をしなければならないからである。

人前で自分を偽るからである。


見たいものもない。
映画にも演劇にもいきたくない。
会いたい人もいない。
でも家に居ても退屈でやりきれない。

独りでいる事は楽しくないが
皆でいるのも消耗する。
そして何をするのも億劫である。
自分からしたいこともない。
かといって何もしないで居るのもつらい。

長いこと様々な感情を強引に心の底に押し殺しているので
生命力が低下しているのであろう。




■人生は乗り越えるもの。耐えて苦しむだけ


ではなぜ、人は生きることに疲れるのだろうか。なぜ生命力が低下するのだろうか。
それは、生きることに疲れた人は
恐らく、憎しみとか敵意とか嫌悪感とか様々なマイナスの感情が
心の底に鬱積しているのであろう。


そして、誰からも受け容れられなかった。


この人生はきっと何かあるだろうと
一生懸命生きてきたのに
気が付いたら生きることに疲れていた。



(損失回避、やりたくないことを避けるためだけの人生だった。やりたいことなんか何もない。)



生きることに疲れた人は真面目な人である。
努力してきた人である。
努力している時に、まさか自分がこのようになってしまうとは予想もしなかった。
自分の努力はいつか報われると思っていた。
まさか自分の人生がこのような形で行き詰るとは予想していなかった。


でも今、生きることに疲れて何もする気にならない。









自傷行為は全部、ミュンヒハウゼン症候群??






◇ミュンヒハウゼン症候群



・病気をつくる



ミュンヒハウゼン症候群はまれな障害ですが
自傷行為が見られる。
治療を受けることを目的に自分を傷つける精神的な障害。

(伝えたいことをうまく伝えられない、自分が言いたいことに関心を持って欲しい
 ということを伝える意味で行われる自傷行為はある意味でみんな、これなのかも)


女性に覆いという特徴がある。



自分自身で症状を作り出して治療を受ける。






◇自傷行為は生きるため。しかし、いずれは死へのカウントダウンへと





自分を傷つければ当然、身体に痛みが出現しますが
身体が傷ついて血が流れ出す痛みよりも
じつはもっと心の深いところで
大きな痛み、苦しみ、そして怒りや悲しみを感じるのが
自傷行為をする人たちです。
心の痛みを一時的に身体の痛みに変えて、
血の流れとともに心の痛みを流し去ろうとする行為が
リストカットをはじめとする自傷行為。




■自傷行為とは

身体が傷ついて血が流れ出す痛みよりも
じつはもっと心の深いところで
大きな痛み、苦しみ、そして怒りや悲しみを感じるのが
自傷行為をする人たちです。
心の痛みを一時的に身体の痛みに変えて、
血の流れとともに心の痛みを流し去ろうとする行為が
リストカットをはじめとする自傷行為。



■自傷の根幹

・感情を無感覚状態にしたり、解離することによって逃げるため(世界から自分を離す)
・不安や動揺が高まっていくのを和らげるため(自分を自分に取り戻すため)









・安堵感を得るため


身体を傷つけるとエンドルフィンという自然の鎮痛剤が身体からでます。
ひどい怪我をしたときなど
エンドルフィンが分泌され苦痛をやわらげてくれる。
自傷行為においても同じようにエンドルフィンが分泌されると、考えられている。
エンドルフィンが出ると気分が良くなり
ほっとして安堵します。
このことが自傷行為を続ける強い動機となり
怒りの感情をあらわすためにリストカットをはじめて
切ることで安堵感に感じたり、一種の陶酔じょうたいになれることが
わかってくると何度も繰り返すようになる。
自傷行為によってしか喜びを感じられないという人も居ます。
普通の人より興奮や痛みを感じにくく、
自分をひどく痛めないと興奮しません。
自分が止めたいと思っていないので
もっとも治療しにくいタイプ。











■代理ミュンヒハウゼン症候群

子どもの世話をする人物、多くは母親が
本来は健康である子どもを病気であるかのように見せかけ、
あるいは実際に病気にする。

ミュンヒハウゼンは患者が自ら病人の役割を演じるの対して
代理ミュンヒハウゼン症候群では
親が自らではなく
子どもを「代理人」として病人に仕立てて
小児科に居座ろうとする。

なぜなら、
病院では優しくしてもらえる、物理的にも精神的にも。
テレビを見て雑誌を見ていても起こられない。家庭や仕事、現実から目をそらせる。
ウルトラな免罪符。

ただ、通常であれば
そうした二次的な利得よりも
断然「子どもが健康である」という価値を最優先するはずなのだ。

日本語は責任を回避する言語




日本語は主語がなくても一応、伝わる言語だって聴いたことがある。
和訳された本を読んでいると、「私、私たち」などの主語が出てくるのが
センテンスごとにでてくる場合もあって
なんだか違和感がある。ちょっとクドい気がする。
ただ、逆説的には、いかに主語が誰なのかを曖昧にしているかってことなのかも。


そこには主語をぼやかすことによって
「丸く治めたい、事を荒立てたくない」あるいは
「責任を回避する」っていう意味合いが強く込められているのかもしれない。


いかに背菌を回避するか?みたいな足の引っ張り合いは
そこらじゅうでおきている。
いかに成功とかコミットするか、とかっていう
欲求達成より、損失回避傾向が強いのが主語をあいまいにしても伝わる日本語と言う言語から
も読み取ることが出来るのではないだろうか。

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幻影の星 読書感想文

るり子とルルドのお別れのシーンを読んで
ドトールで抑えきれずに鼻たらしながら泣いた。
なぜか、じいちゃんを思い出した。





じいちゃんだけが唯一寂しいときに(幼いから寂しさを偉大なんて思わなかったけれど)絶対に相手してくれた。どんなに写経に集中しててもヒコーキ飛ばしに付き合ってくれた。

絶対的な一人ぼっち感を抱えながら生きてきたるり子にとって本当に支えるになる唯一の存在だったルルド。本当にありがとう!と言い切れた、るり子に比べて、9年経った今になっていまさら、僕は「ひとりぼっちにしないで、行かないで」って叫びたくなった。どうしても涙が止まらなかった。
自己愛の投射ではなく本当に僕が望むままにケアしてくれたのは、じいちゃんだけだったんだなぁと思った。じいちゃんがいなくなるってことは、僕がいなくなったってことなんだっていまさら思った。じいちゃん、どうして一人ぼっちにして行ってしまったの?本当にありがとう!とは、まだ言えそうも無いよ





幻影の星

幻影の星

  • 作者: 白石 一文
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2012/01
  • メディア: 単行本



タグ:白石一文

設けるなら弱者から絞ったほうがコスパが良い




弱い人たちを、より弱くすることにコツがある。




本当に稼ぎたかったらね、
強い人たちや頭のいい人たちを相手にするんじゃない。 弱い人たち、お金をあまり持っていない人たちを相手にするんだ。 弱い人たちから、お金を引っ張るのが一番だ。(思考停止ビジネス/坂口孝則)




ソーシャルゲーム=ネトゲ、であるはずなんだけど
みごとに再ランディングされて、
暗くて危険なイメージをかなり解消し
未来的な感じになった。

このソーシャルビジネスは 隠れBOPのビジネスであって、
まさに、弱い人たち、損をしていると気づかない人たちを さらに弱くしている典型だと思う。



◇メールは女性にとっては会話。男性には手紙 [男女]



なぜ女性は
意味の無い会話を持続的に行えるのかと言えば、
会話と言うのが
話すのは単なるコミュニケーションの道具でしかないからなのだと思う。
内容はあまり関係ない。相手を理解して自分に共感してもらえば、それでいい。


たいして男が概して無口なのは
儲けたいとか口説きたいとか
目的があるとき以外は口を開くのがわずらわしいからだ。





■男性は達成したい目的なしに言語を操らない

おとこで
「イツメン最高」とか「俺たち仲いいよなぁ」
と発言しているグループは
あまりみたことない。
わざわざ口に出すのは恥ずかしい





■女性にとって言葉は接着剤


一方、女性は常に言っている。
SNSなんかでも頻繁に仲間との素晴らしさを
中に外に向かって発信している。
彼氏の自慢や仲間の素晴らしさを
他者に自慢するとともに
自分でも仲間に属している自分を感じていたのだろう。


古代よりコミュニティを守っていかなければならなかった女性にとって
自分はあなたと仲良くしたい!という態度を常に示しておくのは
当然の手段なのかもしれない。
確認作業を常に行わないと不安。
いや、その確認作業さえもコミュニケーションの
道具として使うのかも。


分かって欲しいと切望しながらも…


自分をまったく理解してもらえないことは極めて辛いが
最も辛いのは完全に理解されてしまうこと。



大方の人間関係を維持するには
まずは相手を理解しようと努め、その上で、
決して十分には理解しないままでいることが大切だ




寂しさの良し悪しとBPD





◇寂しさの意味の仮説




■寂しさが「強い」か「深い」か





寂しさはみんなが少なからず抱えている。
ただ、寂しいという言葉はみんな同じように口にしていたとしても
本人が表現し表現しようとする「寂しさの意味」は個別的だ。






人と一緒に居ないのが寂しい。 肌を合わせる相手が居なくて寂しい。 人と居ても寂しさを感じる自分が寂しい。 お腹がすいて寂しい。 何も無いのに寂しい。





ただ、どうも寂しさは
「感情」と「状態」に大別される気がしている。





普通の人たちに
「寂しい」と伝えたところで、伝わらないことが多いのは
欠損感から生まれる寂しさってのは恐らく、一般の人たちは経験していないからなのだと思う。


失って得るのが挫折じゃなくて欠損なのは
これはある意味で自分ではどうしようもない時期の話だからね


たぶんだけど、健常者の人たちの寂しさは強弱なんだと思う。
対して、寂しさに蝕まれる人の寂しさは「深さ」で表現されることが多いように思う。


寂しさで心が痛いのは強弱の人の話。
寂しさが心をポッカリと消していくのが「深さ」で表現する人たち























◇健全な寂しさは人を強くする







■寂しさ=尽くせる相手が居ない自分


寂しいと言うのは心の持ち方と同時に
「他者が不在で自分し居ない」と同義かもしれない。


それは
「相手から何かをしてもらう」とか
「自分は一人で過ごすしかない」とかっていう
”自分に対する他者からの効果”というよりも、もしかしたら
「何かをしてあげられる相手が自分には居ない」という意味が
寂しさの本質なのかもしれない








■寂しさは他者との接着剤


私だけなら汚い部屋で
適当に何か食べてすますんだけど
あなたと一緒じゃそれはできない
掃除もしたいし何か作るわ
人がひとりじゃ生きていけないって
よく言うのはさみしいからっていうより
誰かのために何かしてあげたくて
いつでも隣にいる その人のかがやきが
まぶしいと自分もそこに近づこうとする


(lecca/???)














■大切な人が出来ると自分を大事にする


チャランポランな人生。
自堕落で破滅的。
その日その日の欲望を満たすために毎日を送っていたAさん。
ある時を境に
人生がスタートする。


愛する人が出来て自分を大切にするようになる。




栄養のあるものを食べ、夜には寝て、仕事をする。

なぜなら、愛する人を守りたいから。
その人を社会と言う枠の中でしっかりと守っていくためには
守れる自分、社会で勝ちの自分で持続的にならなければならない。


だから、自分を大切にする。
自分だけのために自分を大事に出来ない人であっても
守りたい人のためなら、自分を変えていける。






守る誰かができた時に
男って強く変われる
(キンキキッズ/ジェットコースターロマンス)


とは、まさにこの事。
きっとこんなふうに、
誰かのために生きることって人間にとっては結構幸せなこと
だからこそ、誰かのために生きれないこともまた、「寂しさ」と呼ぶにふさわしい状態だと言えるのでは
ないだろうか。


自分に何かを与えてくれる人がいないことだけでなく
自分を分け合う相手がいないこともまた、
寂しさなのだ、とleccaさんの歌詞に触れて漠然としていた要素が集合して
言葉になった感じ。















◇本質的な寂しさは簡単には埋められない





■寂しさの影響は計り知れない




寂しさには二種類あると思う。


一つは成人の寂しさで、
これは退屈という意味に近くて
感情というよりは”状態”の事を指す。
ちょうど、寝る時間になってベッドに入るけど
なかなか寝付けない、あの感じ。
あれは寂しいと思わず退屈と感じるものだ。
これは本来的な寂しさという意味合いではない。
感情群の一画を成す。



もう一つは乳幼児が感じるような切羽詰った寂しさで、
これは見捨てられ不安とも呼ばれる。


「寂しさは色も匂いも無い毒薬」
「寂しさで、人は壊れてしまう」





見捨てられる不安に近い寂しさは人生を追い込む。


捨てられる不安は、それを感じるのが怖いあまりに、
捨てられる前に捨てるなど愚行のもとになる。

そこまでしなくても
不安を消そうとして酒やギャンブル・過食や巨額な買い物で不安を紛らわせようとしてしまう。


この見捨てられる不安での寂しさへの対処法というのは
実は存在しなくて、対処療法的にアルコールやギャンブルなどで
”とりあえず”乗り越えようとする。

とりあえずだから、根本は解決していないので
いつまでもその行為を続ける。
いつしか、それなしではバランスがとれない=依存状態になる。


そして、見捨てられ不安が強烈な心の状態を持つと
BPDと呼ばれる診断領域になる






■境界性パーソナリティ障害(BPD)






・すべてつまらない


BPDの人の中には
虚無感に悩む人たちがいます。
その虚ろさを何かで埋めずにはいられません。
いけないと分かっていても、強い刺激を求めます。






・何かが足りない


自分がわからないという同一性の傷害、自己否定感、見捨てられ感から、
自分にも人生にもむなしさを感じる。
何が足りないのかわからないが、何かが欲しい。


心はカラッポ。この虚無感を何かで埋めずにはいられない。
刺激が強いほど、むなしさを忘れられる。
しかしながら、
親や恋人にすがっても
薬物や食べ物で埋めようとしても、癒されるのは一時だけ。
あとで後悔する。


おもしろいことも楽しいことも何も無い。
生きている充実感も感じられない




自分の寂しさの形をすっぽり補ってくれる存在を探しては裏切られ、
期待しては期待はかなわずに
破壊的な行動を繰り返す。



誰かがいないから寂しい、という状態ではなく、
誰が居ても何があっても。どうしても拭いきれない”感情と言う寂しさ”に蝕まれた典型例。



完璧に自分を満たしてくれる存在を徹底的に探す。
しかしこの世界で、自分を完全に満たすものなど出会える人間はそんなにいない。
それなのに求めずには居られない







◇BPDに発展する寂しさ

■しっかりした愛で寂しさを埋めてもらえなかった






理想的な自己像や他者からの完全な愛情を求め続けている人は
深い自己愛の傷つきや他者への幻滅を体験している人が多い。


また、人生早期にあまりに自己愛を満たされすぎて、
それから逃れられなくなったケースも多く見られます。




深い傷つきとして考えられるのは
親の自己愛の犠牲者として育ったと言うこと。
親にとって子どもが自分を満たす道具であった場合、
子どもはきわめて高い適応力を発揮し親の期待に沿う子を演じる。

そして子どもは、自分を抑えているうちに
自分側から無くなる。何で満たされるか分からなくなる。
残ったのは満たされない状態だけ。


鍵穴にはまる鍵がなくなったら、
どうやって心の開閉を行えばいいのだろう…








■自分で自分を満たせないので相手を利用する


共依存とは他人の世話焼きに没頭し自分の真の必要(欲望)が
わからなくなってしまった人のことである。最も多いのは夫に絶望し子供の世話焼きに没頭する母親だろう。
子を生きがいとし期待で縛り上げる。
この縛りから抜け出ようとする子は非行やひきこもりなどの期待はずれを演じる他ない。
縛りに甘んじる子は自分の欲望を知らないロボット人間と化す。



自己不在のままに成長してしまった場合に、
何かしらで自分を満たそうとする。

アルコールならアルコールにオブセスするだろうし
人間関係に活路を見出そうとするのなら、人間とのうまくいかない関係を破滅的に繰り返すだろう






■対処法として



自分を救ってくれる人を探すのではなく
自分で心のピースを整える。
悲しいけれど、失った寂しさの補填材料(=幼少期の母性性)は
もう、戻らない。だとすると、損なわれたままで生きれる方法を模索するしかない。


それには、相手への期待ではなく、そこそこの寂しさであれば耐久できる自己を繕って
生きていくしかない





自分が小さい頃から作り上げてきた生き方、
それには深い人生の意味が込められている。
だから変えていくのは大変な作業だ。
簡単には変わらない。
でも、変わらないことに気づけば、それが自己受容だから、変わる。


あえて言えば、人生に「間違った認知」などといいうものはない。
他に置き換えなければならない認知などない。
人それぞれに与えられた環境で生き抜くために、
つらい生き方を取り入れ「ゆだんだ認知」を必要とするのだ。









奪って奪われて

他人から搾取しなければ生き残れないし、いつまでたっても搾取される側の人間で終わってしまうことを早いうちに理解して欲しい。
他人に利用されて苦杯舐めて裏切られて。そうやって他人に利用されてあがっていく。
地位の上の人に利用されるのは嫌だけど、その地位を利用して自分も等身大の自分よりも
高い場所につれてってもらっているのは事実。
だから、両成敗。
搾取されて利用されて少しずつ昇っていく。そしていつしか、地位を搾取される側になる。
可能であれば、金銭の搾取をしないで地位を利用される人間になりたいが
それは無理かも知れない。



母と子の製造物責任法契約









育児の中でも「授乳の時が落ち着く」という意見が
若いお母さんの意見で特に多いのだそうだ。



最も微笑ましい場面に安心を感じているだなと思ったら
とんでもない



おっぱいに集中してくれている間にメールが返せるから
という理由で安らげる時間なんだそうだ。



子どもは
女性の人生に必要ですか?


世間のテンプレートにあわせようとしているだけで
子どもなんか居ない人生のほうが豊かだと確証を持って言えるんじゃないですか??





ただ、子供からしてみれば母親に
100%以上の愛の供給者であって欲しいというのは当然の思いだ。


産み落としたからには愛を与える責任が発生する。
製造物責任法ではないが
ある程度のところまでは責任を負うべき。


ただ、可能であれば生まないであげて欲しかった。
それか、本当に愛情を注げる親近者を子どもに割り振ってあげる、もしくは
完璧な演技で愛情を注ぐ振りしてあげて欲しい。










■我が子は愛しい幻想



「我が子を憎らしく思う」
この発言は母親として人間としての人格を疑われてしまう。

「子は母を慕い、母は子を無条件に愛するもの」 と刷り込まれた価値観のために 私たちはどれだけ罪悪感のとりこになってきたことでしょう。











その個人が感じたことは
世間でどう評価されようとも
感じたことは100%正しい。

その気持ちを隠す必要はあっても、
ごまかす必要はない。



こういう気持ちを押し殺してまで
妊娠出産、そして母親、という幸せのテンプレートをこなす必要はない。
不幸を産み落とす必要などないのだ。













■幸せな子どもは増えるのか?


シングルマザーをもっと認められる環境にして
シングル手当て・保育拡充して未来のために子孫を残そう



などという議論が行われているそうだが
なぜわざわざ、不幸の数を増やそうとしているのかと
ほとほとに疑問を感じずにはいられない。




確かに出生率は国を継続的に繁栄させていくためには
絶対数として人が多い方が経済は栄えるし
消費拡大にもなるのだろう。
そのためには、生みやすい育てやすい環境の整備だって
大切なんでしょう。





けどね
自分を自分で満足にコントロールできなかったり 未熟さを子供に補ってもらうとしたり 夫婦関係継続のツールとしての存在を期待したり 初めから、自分達のご都合主義ありきで 生み育てることで、いったい誰が幸せになれるのだろうむしろ、不幸になるものをこの世に産み落とすことになるのではないだろうか。











■子どもは幸せを運んできてくれる、という幻想





この子を、この世に迎え入れなきゃ、とかね。
本当は、堕ろしてしまったという十字架を背負って生きていくのが
イヤだから、そんな義務感みたいな感情とすりかえているのかもしれない。



極めて自己愛的でありがならその実、自尊心は満たされていない、
そんな人たちが子供をもうけることは
その後の親子とその周辺に、どのような影響を与えるのだろうか。



子供は弱いし、親の庇護がなければ生きて行けない。
だから、意識はしていないだろけれど、親を精一杯好きになり
この世で生きていくためには親に気いられて親を好きになり
親から守ってもらわなければ本能でわかっている。





つまりそれは、子供は親の思い通りに操作できるということだ。 小さくて可愛いし、なにより「親」という オンリーで唯一無二の役割を与えてくれる。




これは自分の生きる意味だと錯覚できるくらいの幸福感なのだろう
オンリーワンって事は、ナンバーワンって事だから。


自尊心、自己肯定感が、 それまでの人生で欠如していた人にしてみれば こんなに自分の都合よく幸福感を与えてくれるモノなんて 今までなかったことだろう。






享受するものが手に余るので
自尊心を満たすための道具として子供を使ってしまう


それで、最初は
尊い命を守っていると言う優越感に浸れて
唯一無二のそんざいになれたんだと、張り切るんだけど
ペットやゲームのキャラのようには思い通りには親に従ってくれない。

なんで言うこときかないの?
めんどくさい、むかつく、自分の時間が欲しい、



っで、やっぱり未熟で自己統制が出来ていない人は
自分の思い通りにならない事を継続して忍耐して行うことなんて
できないことの方が大いに決まっている。




そしていつのまにか、自分の都合や機嫌が優先され
個の命として尊ぶ気持ちは失せてしまう。









■子育ては嗜好品の時代



子育てが、テレビやネイルサロンに通う事と
同じレベルの事象になり、今日はどれをしようかなぁなんて
無責任にもほどがある思考が定着してしまう





子供は敏感ですから
あぁ愛されていないんだなって恐らく感じてしまうのでしょう。


けど、親から見捨てられたら世界で生きていけないから必死で 親の機嫌を損なわないように耐えて耐えて、いつか機嫌がよくなるだろうって それまで、自分を抑えこんで待ってしまう。

こういうことが繰り返されれば
人格形成にどういう影響が及ぶか、見えてきませんか??



そう
何らかの取り除くのが難しい問題を抱えて発育していくことになるでしょう。


まさにペット飼う感覚で子供を育ててしまうのだ。



そのペットによって自己愛者は自分の欲求を満たさそうとする。
自分が満たされようとしているのです。
犬に服を着せたり、マッサージにつれていったりするのは
ペットが、かわいくなった姿を自分が見て満足して
可愛くしてあげた自分に満足したいだけなのです



その発想で育児をしたら、子供の望んでいることをしてあげようとより
自分の希望や欲望に子供が合わせて欲しいとなってしまうのです。

これが自己愛です。ですから自分が作った離乳食をきちんと食べ欲しい
お母さんだって疲れてるんだから、夜鳴きなどしないで眠って欲しい
など自己愛的感情になって
そのとおりにならなかった時にはイラダチを感じてるわけです。

ぜーんぶ、自分の思い通りになって
自分を満たしてくれる存在だと勘違いして勝手に私だけなんでこんなにつらいの?とか悲劇演じるちゃう。









■不幸を生み出す犯罪者たち




子供を産みたいと心から望んでいるのは、とんでもない錯覚に過ぎないってことです。
きっと一人の人間を生む。誕生させるということにものすごく大きな価値を感じてしまっているんですよ。
どうせ自分同様にさほど面白くも楽しくも無い自分を送るしかない、何ほどの価値も無いような
人間を作り出すだけの行為をものすごく尊い作業のように勘違いしているんです。




この世の中には、親になんか絶対にならないほうが良い種類の人間がたくさんいる。
つまり、不幸を生み出さないという行為が犠牲者を出さないと言う意味で、
幸福を生み出していくということになるのだろう。


自分を幸せにするので精一杯のキャパなんだと
分かっているのなら、自分を幸せにするための人生に終始するべきだ。

出産をすることで夫を父親にする、親を喜ばす、といった他人を幸福にする、とか
赤ちゃんを幸せにするとか、そういう他人に影響を与える自分を
想像し創造してはいけないのだ。





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