愛情の欠落は愛情との距離をさらに深める











愛を渇望しながらも拒んでいる。
頑なに心に鍵をかけている。



なぜなら愛されるわけがないって思っているから。




愛は手に入らないものだから、 求めて行動しても手に入らずに傷つくのがオチ。


これは、
他人をどれだけ信頼できるかということに関わっている。




たとえば、トラウマを受けた人の症状として
虐待などによって傷ついてきた人は
「傷つけられるのではないか」と感じると、
ちょっとした刺激でもそれを猛然と排除しようとしてしまう。




他人は自分を傷つける存在だと思い込んでいれば
本当の愛情など手に入るわけが無い。






恐い。
傷つくのが怖い。


だけど ここにいても、先はない






何かを失うのが怖い。 もう失いたくない。


大事にしたいと思えるものなど
何も無い。




それなのに、全
てが奪われてしまうことへの恐怖を拭えない。







こんなことを綴っているうちに
内面の意外な真実に気づいた。





それは
奪われることが怖いって言うのは
奪われることよりも、 ”与えられないことが怖い”のかもしれない、という事。



何が与えられないのが怖いのか。




それは、愛情。 愛情を与えられないのが最も怖い。
僕は愛情の有無を察知するのが恐ろしく早い。


この人は愛をくれる人かどうかというのは
すぐに察知できて、それはだいたいに当たっていることが多い。


これは愛情の欠損の裏返し何だと思う。


足りないから補おうとする。
必死で与えてもらおうとする。


過敏なのか敏感なのか。



必死で相手の動向を捕らえようとするのは
良いことなのだろうか。


いや、相手を楽しませようとか喜ばせてもらえようという
相手に対して何か肯定的な影響を与えたいっていう意味で
相手を観察してニーズを把握しようとするのはいいが、 自分が相手になにをしてくれるか?という視点で 相手のご機嫌をうかがうのは
あまり良くない傾向だろう。


相手のためという視点ではなく、
自分に何がもたらせれるか?という利己的な発想になると
生み出されるのは苦しみだけだ。



なぜなら、相手に依存的だから。
何かを与えてもらうことばかりを期待しているときは
たいていは満たされない。 自分が望んでいるものをそのままの形、量で 差し出してくれる人などいないからだ。

それに、
相手が居ないと自分を満たせないというのは
いくら与えられたところで満たされることは無いと思う。






相手が気になるってことは
相手の感情によって自分の感情が激しく変わってしまうのだ。


自他のはっきりしない人間は
他人を幸せにできないし自分も幸せになれない。



幸せは感じるものであって
幸せを感じさせてもらおうというのは土台無理な話。

だから、自他の境界線ははっきり敷けるようにならなければならない。

どれだけ幸せっぽいものを与えてもらえたとしても
それを幸せと感じるのは自分であるし同時に
愛を与えたとしてもそれを愛と受け取るかは相手次第。


自他は違う存在。
だからこそ、たった一人の人と藍の交換ができる相手との邂逅を
私たちは切望し待望しているのではないだろうか。


伝わらない相手が居るからこそ、伝わる相手が見つかる。

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