運命は気づいて築くものだから








運命の相手とは出会うだけじゃきっと駄目なんだよ。 最も大事なことは、この人が運命の相手だと決断することだ。そう決める覚悟を持ったときに、
初めてその相手は真実の運命の人になるんだと思う。





心から大切にしたいと思える人と過ごす時間は人生で不可欠。
なぜなら人は誰かと一緒に生きることで初めて、 自分の核心に触れることができるから





運命は決断するもの。 自分で作り出すもの。だから、誰もが運命の人とである。
その一方で、決断してしまったら、自分に責を課すこと。逃れられない




決断が間違いだと気づいてしまうこともある。
もちろん、再び正解に変換していける場合もあるのだけれども
決断に縛られて生きていく必要はあるのか。
人間は義務のために生きるのか。







決断したのは自分なんだから…と自分を偽っていける人も居るのかもしれないが
いつか限界が来る。


結果を受けて決断するのではなく 決断することで結果を背負おうとした場合
無理が生じる。
人生が忍耐するだけの時間に変わってしまう






なぜそんな我慢をしなければならないのか。
自分に我慢を強いることがことが当たり前になっているという時点で
いかに自分を大切にしていないかがわかる。

自分の望まない分野で自分を削って生きるのは 文字通り骨が折れるし、長期的には誰も幸せになれない。ただ、超長期的には幸せに落ち着くかもしれないが…。


しかも決断は
自分だけでなく多数の人生を巻き込む。



人間は実は自分が思っている以上に多くのものに守られているし、
その状況を切り離してしまうことがいかに困難か。


決断を下したら
そう簡単に逃れられない。
運命は変えられないもののように思われている。
理として介入や操作など人間の力など全く及びようの無いものと考えられる。

しかしながら、運命が決断であるならば、
決断するという意志であるならば、
意志によって運命は何度でも変えていっても良いのではないだろうか。











どちらが正しいのだろう。
決断を守っていくのが社会的には評価される”正しさ”の
ような気もするが
誰もが誰かを不幸にしないために生きているわけではない、というのも
生きている人間の事実として排除されるべきではない。


運命が決断ならば
決断した自分に責任がある。
責任は持ち続ける義務があるのか。
運命は一度乗ったらもう降りられないのか…


運命は決断するもの。それとも、選択しないことでしか本当に選ぶことは出来ないのか。
人間は何度でもやり直せるのか。
それとも、間違った報いとして偽りでも日々を営み続け無ければならないのか。









もしも
答えを示せと問われたのならば
「答えはない」という曖昧な答えが
明確な回答になるだろう。




人生は続けていくしかない。
何を選んだか?という事はあまり関係ない。
常に選択し続けて、進んでいくことでしかない。


選び続けることが正解であり、
選択肢それ自体に正解不正解は無い


だとすると、過去の自分で突き進もうが、
今の自分の気づきを優先しようが
あまり関係ないということ。


答えを探し続けることだけが
答えになるのかもしれない。



責任感





最近、楽をしようとする人本当に多いなぁと実感する。
楽ってのは自分が軽くなる分を、”相手のショック”に移し変えてしまう行為


だから、長期的にみれば、
楽をしようとする人間には誰もついていかない。
















人の苦労や思いやりを安く見積もって自分の楽さを優先してしまう。



ありがとうございます!と言いながら、 自分が苦労してまでその人に報おうとする行為は 損と考えてる人が多いと思う。




卑怯な人間は、自分が損をしそうだと思うと簡単に信念を曲げる。





自分が卑怯であること、自分が性悪であること、
自分が人の事なんて微塵も考えてなくて、自分の事ばかりであること、
色々それらに気づかず
「自分は一生懸命なんだ、いいことをやっているんだ、間違ってなんかいないんだ」と
思ってしまうのだろうな。












どんな仕事でも相手が居る。受け手が居る。

responsability=責任


resuponse ability
返事をする能力。
相手のニーズや期待に応えていくのが 責任なのではないだろうか。










生かされている、という感謝を忘れなければ、
楽しいはあっても楽はできないはずだ。





香山リカさんは、グータラでも上位層に入れる能力がある人なので本気で頑張らなくても良いと思うのは間違っています!!







■香山作品は楽しい




カヤマー、というほどではないが
彼女の著書はかなり楽しんで読めている。





勉強としても知識欲としても嗜好品としても
概ね読んでよかったぁという
総合的な読後感を得られる。


香山さんの著書のいいところは
極めて鋭い分析力は当然だが、
「等身大の自分で生きよう」というメッセージが一貫して送られていることが
競争社会の殺伐した空気の緩衝材となっていることだろう。








■有能な人の「頑張らなくてもいい」を真に受けると沈んじゃう!



ただ、一点、どうしてもひっかかるのは
「頑張らなくてもいいじゃないか」と提唱している本人が
極めて優秀で有能で高水準の生活をしている、という事。






香山さんの著書の中ではよく、
グータラな香山さんの内面と行動が綴られ居る。


そこがトリックである。





香山さんはグータラしてても
医学部にいける才能がある。
そういう人と一緒で
頑張らなくてもなんとかなるって思っちゃうのは間違いだし
そう思わせる、内容になっている。


端的に言えば、

「才能があるから労力を欠けずに  そこそこの頑張りでしっかりと結果を残せるのであって、  香山さんではない凡人が  彼女と同じようにだらけの精神で過ごしていても  同じ水準の結果を得られるわけがない」



という事。


そこそこの頑張りで高水準に辿り着ける人の
「頑張らなくてもいい」という語りを癒しではなく、
本当に受け止めて実行してしまってはいけないのだと思う。






■人間はやっぱり自分は棚に上げるのね


勝間さんとの鼎談の対談本もあったりして
楽しい。



勝間さんには、



「間違った親近感を与えるような発言をすると
 あなたの真似をすればあなたのようなスーパーウーマンになれると
 本気で思って倒れる女性が出てくるので
 勘違いさせる書き方はやめて下さい」



というように

”下手な親近感を醸してモデルになるな!!”


みたいなこといってるくせに
自分は「頑張らなくても本もテレビ出演も出来る人物」としての 自分を確立しようとしている。
本人はだますつもりはないのだろうけれど、
頑張らなくても文科系芸能人になれる。。。


そんな幻想を与える存在に
香山さん自身がなっているのではないだろうか。














■おまけ



頑張らなくても結果がついてくる人の 言説を鵜呑みにしても 明るい未来はないような気がする。



身の丈にあった人生、身の丈にあった謙虚さを持って自分を見つめなおし、
紳士に必死に生きていかなければならないなぁと綴っていて思った。


欠落感で抜け落ちているのは心という感情を溜め込む器





◇要諦

パーソナリティ障害→基底欠損水準→欠落感→離人、解離











■生きづらさを構成する感受性







自分の人生に圧倒的に何かが足りない。
他の人たちは持っていて自分には決定的に何かが抜け落ちていると感じる。

何が抜け落ちているのかは分からないが 生きるのに必ず必要な何かが欠けている気がする。 欠落感。欠損感。不全感。虚無感。空虚感。離人感。解離。。
などなど、何かが一般の人たちと比べて
決定的に損なわれている状態。




欠落感。
欠落感とは、感情の欠落なのではないだろうか。




感情を味わうことのできない状況こそ
人生における欠落感を呼び起こす要因なのではないだろうか。












■悲しむための”器”が損なわれている



悲しめない。


悲しむためには 悲しみを入れる器がなければいけない。


器ってのは心


心を持っていないからパーソナリティ障害は深い空虚感が伴う。





パーソナリティ障害の人たちは、
こころからは悲しめない人たち。




それは有体に論じるのなら
悲しみを貯めておく器である”心”が無いからだ。



悲しみを入れる器に悲しみが溜まっていかないから
本当の意味では悲しむことができない。




そして、心(器)がないから
自分の存在を実感するための道具であるはずの感情を持つことができない。


彼らのこころには、愛情を受け取る受容器が備わっていない。
もし誰かが愛情を注ごうとしても
底の抜けたグラスに水を注ぎ続けるかのような徒労感だけが残る。
どれだけの愛情を注ぎ続けても溜まっていく感じがしないのである。




■愛も喜びも、そして悲しみさえも感じられない


ただ、感情は表裏一体だから 喜怒哀楽の哀だけが抜け落ちていくことにならない。 悲しみという感情も入れる器がないのであれば 喜びや楽しさという感情を真に味わうこともまたできない。




この喜怒哀楽を感じられない状況が
パーソナリティ障害と診断された人々が話す
空しさであり空虚さ。










■感情の味わえなさ=欠落感


この空虚さが欠落感につながり、
欠落感が精神医学で言われる基底欠損水準になる。


悲しみは感じないに越したことはないが
生きている証でもあるし幸せの原料にもなったりする。


喜びも悲しみも真に感じられないのは
生きている実感の欠落であり
その欠落感が行きづらさをあらわす。


感情をしっかり味わえないのは生きている実感の欠落そのものなのだ。














■心(器)は取り戻せるか

じゃあ、心という器を作り直せば感情を貯めることができ、
生き生きした日々を取り戻せるのか?と問われればそれは可能だ。



ただそれは、もともとに心が存在していた場合に限る。


つまり、 元の形があるのなら、 壊れたピースを拾い集めてくっつけて形作ればいいのだが、 元から存在しない、あるいは形作られずに育ってきた場合に、 ある時期に作られなかった心を作っていくのは難しいのだという。






時間は不可逆なのは間違いないが
心という器もある時期を越えると
修繕することができないとバリントは言っている。


バリントの言うところで基底欠損水準の患者は
その不都合を抱えて生きていくしかないという。



バリントは次のように述べている




>>


基底欠損水準の患者は、従来の精神分析的技法では
改善するどころか病的な退行を引き起こしていく。
エディプス水準は葛藤に由来しており
治療者からの適切な働きかけにより、解消が可能であるが
基底欠損水準においては、そこから発する力は 本能の形も葛藤の形ももっていない。 欠損という形態が存在しているのみである。 端的に、欠けているものなので、 解消や完全な治癒はあり得ない。





>>








■歪さを抱えて生きていくしかない



形のあったものが壊れたのなら
時間はかかって苦労しても
丁寧にピースを拾い集めてつむぎ合わせていけばいつかは
形は完成する。


しかし、元からの形が存在せずに
形そのものを”欠いていた”場合にはどうなるか。





上述が正しい意見だとすると、 永遠に壊れたままであるということだ。 形作られるべき期間に 形成されなかったら、 もう、収まるべき形の型を持つことはできない。
だとすると、歪さを抱えて生きていくことが唯一の対処法となる。


形が整うことがないということは
真に喜怒哀楽を味わうことができない。


感情が分からなくなるということは
自分の存在がヒドく曖昧なものになってしまう。


それは最終的には
欠落感をさらに増していくことになる



つまり、拭えない欠落感はさらなる深い欠落感を生み出すようになっていくのだ。











■生の実感は重みの中に



心(器)がないから喜怒哀楽が抜け落ちている。
その感情のなさこそが
欠落感になっているのではないかと推察する。




情緒が不安定で涙を流すことは多いが悲しみが味わわれているのではなく、
その情緒を洪水のように排泄してしまうだけの行為。






あとこれも単なる邪推でしかないけれど
心ってちゃんと形作られている”完成品”については結構、重量感があるものなんだと思う。

その重量感じられないから命の重み、生きていることの実感が
なくなってむなしさに繋がっているのではないかと思う。


生きているって言うのは案外、
苦しみとか痛みとか重みとかそういう、
できれば避けたいようなものたちにあるのかもしれない。









■希望?

器が形作られていないため
貯めて置ける場所がなく悲しみも命の重みも感じられない。
同じく喜びという感情も決して満足も満タンになることは無い。


だから、周りの人ができることは愛を注ぐより、
零れ落ちた感情を丁寧に拾ってあげて、なるべく味わえる量を増やしてあげるサポートなのかもしれない。

愛は要らないけど愛されたい




「だからー俺、お前のこと、愛してるんだんだよ
 結婚しようぜ、絶対うまくいくから。」



その瞬間、うれしくなかったといったら嘘です。
うれしかった。
出会って一日しかたっていない男からの直球プロポーズ。
とっくに、結婚への夢など無くしていましたが、
誰かが自分を求めてくれることがうれしかったのです。

(まじめなわたしの不まじめな愛情 山田あかね 徳間書店)












付き合うつもりは皆無だけど
好きになられたいし告白されたい。

あるいは告白されたから付き合う。
現代女性は 承認に飢えている。 認めてもらうことが足りなくて 満たされない。 だから、告白してくれたから付き合う、っていう 別の意味での告白してくれたから…という話が聞かれる。


好きだからとか好意があったからとか
じゃなくて、好きって言ってくれて自分を認めてくれたから。











求められたい。認められたい。必要とされたい。
他人を自己承認の道具としか見ていない。

いま、自己肯定感をもてない人たちがあきらかに増えていて

子どもだってそうだ。 子どもの幸せじゃなくて自分の女性としての 価値をあげてくれる道具に過ぎない。




>>


「既婚者は独身に対して気を使うし、子持ちは子なしに対して気を使う。
独身者も結婚生活や子供の話になるとバツが悪そうです。
お互いにけん制し合い、ミエを張り、妬み合います」
  

「子育ては必ずや自分に何かをもたらしてくれるはずだ」と思い込んでいると、
どうしたって見返りを求めてしまうから辛いだろうな


>>



女性の幸せの価値観が過渡期だからなのかもしれないが
満たされない思いが女性に蔓延している。
ただでさえ、「自分はかわいそう」という被害者意識を持ちやすい女性が さらに自分だけが不幸だという思いを抱えている。
だから、まず自分をどうにか満たそうとする。

友達も子どもも恋人も、全てが自分を満たす道具になってしまう。


これは結局、自分を不幸にするだけなのでは。


そして、本来なら受け入れなくてもいいはずの
DVだったりヒモだったりを受け入れて最終的には傷ついて終わる。


認められないから認められることを求める。


愛情の欠落は愛情との距離をさらに深める











愛を渇望しながらも拒んでいる。
頑なに心に鍵をかけている。



なぜなら愛されるわけがないって思っているから。




愛は手に入らないものだから、 求めて行動しても手に入らずに傷つくのがオチ。


これは、
他人をどれだけ信頼できるかということに関わっている。




たとえば、トラウマを受けた人の症状として
虐待などによって傷ついてきた人は
「傷つけられるのではないか」と感じると、
ちょっとした刺激でもそれを猛然と排除しようとしてしまう。




他人は自分を傷つける存在だと思い込んでいれば
本当の愛情など手に入るわけが無い。






恐い。
傷つくのが怖い。


だけど ここにいても、先はない






何かを失うのが怖い。 もう失いたくない。


大事にしたいと思えるものなど
何も無い。




それなのに、全
てが奪われてしまうことへの恐怖を拭えない。







こんなことを綴っているうちに
内面の意外な真実に気づいた。





それは
奪われることが怖いって言うのは
奪われることよりも、 ”与えられないことが怖い”のかもしれない、という事。



何が与えられないのが怖いのか。




それは、愛情。 愛情を与えられないのが最も怖い。
僕は愛情の有無を察知するのが恐ろしく早い。


この人は愛をくれる人かどうかというのは
すぐに察知できて、それはだいたいに当たっていることが多い。


これは愛情の欠損の裏返し何だと思う。


足りないから補おうとする。
必死で与えてもらおうとする。


過敏なのか敏感なのか。



必死で相手の動向を捕らえようとするのは
良いことなのだろうか。


いや、相手を楽しませようとか喜ばせてもらえようという
相手に対して何か肯定的な影響を与えたいっていう意味で
相手を観察してニーズを把握しようとするのはいいが、 自分が相手になにをしてくれるか?という視点で 相手のご機嫌をうかがうのは
あまり良くない傾向だろう。


相手のためという視点ではなく、
自分に何がもたらせれるか?という利己的な発想になると
生み出されるのは苦しみだけだ。



なぜなら、相手に依存的だから。
何かを与えてもらうことばかりを期待しているときは
たいていは満たされない。 自分が望んでいるものをそのままの形、量で 差し出してくれる人などいないからだ。

それに、
相手が居ないと自分を満たせないというのは
いくら与えられたところで満たされることは無いと思う。






相手が気になるってことは
相手の感情によって自分の感情が激しく変わってしまうのだ。


自他のはっきりしない人間は
他人を幸せにできないし自分も幸せになれない。



幸せは感じるものであって
幸せを感じさせてもらおうというのは土台無理な話。

だから、自他の境界線ははっきり敷けるようにならなければならない。

どれだけ幸せっぽいものを与えてもらえたとしても
それを幸せと感じるのは自分であるし同時に
愛を与えたとしてもそれを愛と受け取るかは相手次第。


自他は違う存在。
だからこそ、たった一人の人と藍の交換ができる相手との邂逅を
私たちは切望し待望しているのではないだろうか。


伝わらない相手が居るからこそ、伝わる相手が見つかる。

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共感力の未発達 → 感情欠落 [発達障害]






>>




漫画とかアニメとか、イラストで描かれた人物に感情移入できなくて、
漫画を読めないという話を聞いた。ドラマはいけるけど、
イラストだからだめなんだって。


うちの子は漫画を読まない」というのが今時自慢話として成立すると思ってる時点
でその親はかなり深刻なレベルのアホだと思われるので、
そいつの子供が漫画すら読めんのは家庭の教育環境に依る所が大きいような気がする。



>>





共感できない子供。
相手の気持ちが分からない。


漫画のキャラの気持ちも言葉通りに受け取って
その裏が読めない






アスペ傾向がかなり強い。
というより、後天的に相手との交流がすくないことに起因しているんだと思う。











真性のアスペが先天性のものだとすると
現代にはびこる他人の気持ちが読めない傾向の強い人たちが作られていくのは
他人とのかかわりの欠如によって気持ちと言うものが 相手にもあって、それは自分と違う感じ方をする場合もあるんだということを分からなくしてしまうのだと思う。


もしも、他人の感情に無頓着(分かっていないことを分かっていない状態)を
アスペルガーと呼ぶのなら、
アスペ傾向を抱える子どもが増えるのは間違いない。

そして、感情の交流ができなくなると言うことは
人間同士が互いを理解できなくなって人間関係が希薄になる。
そうすると、おかしな事件とかおかしな症状が社会病理として
全体を蝕むことになる。



感情の凍結は孤立を生み出す最たるものだ。




心や感情なんてのは
たくさんの人間と心を開いて接しているうちに昔だったら
なんとなく自然に学び、そこそこ適応できるくらいの理解度を
みなが達成できていた。


ただ、今日における効率化の波によって
大人が子どもにかまう時間、役割ばかりを優先して感情を排除した
効率的な時間の使い方を強いられており、感情は邪魔なものと認識されてしまっていて
感情を学ぶ機会がなくなっている。


感情を無視したりされたりすれば、
人間が破滅に向かうは当然のことだ。


豊かさを求めれば求めるほどに
実は人間は破滅に向かっている、
僕たちは死に向かって時代を推し進めようとしている。




なんと殺伐とした世界であり無機質な生き方なのだろうか。


感情を置き去りにしたら人間は人間としての尊厳を失い
ただの動物、あるいは機会となんら変わらなくなってしまうのではないだろうか。








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言葉と言う報酬






過程がフォーカスされ頑張りが認められるのは結果ありき。
結果が出てから初めて過程が褒められる。








日本は「褒められない」社会である。
日本では人間が賞賛される基準は殆ど全てが他人と比べての相対評価といってよい。
他人との勝負に勝って結果とみなされ、 結果が出てから初めて過程が評価される。 血を吐いて努力したことにスポットがあたるのは結果を出したチームばかり。



外資系企業は超成果主義なんてきくけど、
金銭以外での言葉の報酬、褒め言葉は
経営者なり上司なりが
労働に対して感謝の言葉を頻繁にあたえているのではないだろうか。




それはたとえば、ほんの些細な「さんきゅー」だけかもしれないが
積み重ねれば、その言葉一つあるかないかでかなりのやる気に反映されるのではないだろうか。





給与と言う金銭的な報酬の減少が著しい。
今後もあがることは少ないだろう。




だとすると、別の報酬、別のやりがい、を感じられることを与える努力が必要であって、
それは実は原点に戻ることなのかもしれない。

つまり、言葉と言う
人と人とをつなぎ認め合う初歩の媒体なのではないだろうか。



共感者が居なければ誰と居ても独り




我々は、 幸福になるためによりも、 幸福だと人に思わせるために四苦八苦しているのである. 人間は、自分が考えるほど不幸でもないし、それほど幸福でもない。


(ラ・ロシュ・フーコー)











死にたいって思うのは全くおかしくないというか至ってまともな感覚。


死を考えない生なんか意味がない。 有限だからこそ今は尊い。







死にたくて辛いのに生きてる人が
個人的にとても好きである













ただ、
生きるのがしんどい人が身のまわりにいない。


隠すのが上手な人たちなのかもしれないが、
どうも演技上手と言うよりは
僕の感じるレベルで悩んでいる人は居ないように思える。


同じレベルで生きづらさを語り合える人間がいない つらい。 思いを分け合える近しい人がいないっていうのは なんとも寂しくてヤルセない状況だ。










だから本当に不幸なのは
死を考えざるを得ない心の状態を持っている事ではなく
自分の思いに共感してくれる人がいないということなのだ。








気合いとか根性とは 最も対極にいるタイプの人の方が話しが合う。


現実の難しさを受け入れながらも乗り越えようとしている、というか、
ネガティブさを受け止めているからこそ生まれるポジティブさに
辿り着いた人と語り合いたい。


いきづらさを受け入れて
それでも、この苦しい世界に反逆を試みる。

そのくらいに現実味のあるポジティブシンキングができる人が好きだ。












依存的な愛を幸せと呼んではいけないのか



トラウマみたいな自分の弱い部分をひけらかして他人の興味を惹こうとする気持ち、
わからなくはないけど
その戦法で引っかかる人は弱ってるひとが好きなだけだと思う。



助けになれるような、自分がヒーローになれる部隊がちょうど良く見つかっただけであって
本当の意味で気持ちが帰属した関係とは言いがたいのではないかと思う。



役割だけの関係、というか。
あて胃のためじゃなくて自分が役割を得ることで救われる為、というか。。





心が離れないようにずっと弱いフリをしてると本当に弱い人間になって
依存症になってしまう気がする。


誰も幸せになれない。良くない。









いや、短期的には圧倒的な幸福感を得られるかもしれない。
お互いにお互いが居ないと生きていけないという運命めいたものを感じるかもしれない。






ただ、未来ある関係性ではない。
その時点、お互いがお互いにもたれかかっているような状況では
いずれ、ガタが来てしまうだろう。




誰かが常にそばに居ないと自分を支えられないっていうのは
ちょっと弱い。





なんていうか、幸せは誰かとの関係性の中で作っていくものなんだけど
一方で、一人で地に足つけて進んでいける能力、つまり一人でも幸せに生きれる人間にならないと
本当幸せは見えてこないんじゃないかと思ってしまう。



なぜなら、どれだけの知識や財力があろうとも
心が脆弱な人間は
まともな人生を送ることなどできないし幸せになることも無いから。




自分で自分を保ててこそ、相手との関係性が深まっていく。
相手のために尽くせる自分になれる。


あまりに未熟な自我であった場合、
自分が幸せになるために相手を”消費”する関係になってしまい可能性が
高いと思うから。



誰かの犠牲前提に成り立つ幸せなんて
本当の幸せ、持続可能な幸せとはなりえないと思う。


犠牲が出てくるのは仕方ないとしても
それを個々が最小限に抑える努力をしないのは
おおよそ幸せを与え合う関係性にはなり得ないのだと思う。









ただ、運命を盲目的に信じるのなら
依存しあって相手が居なきゃいきていけないっていう 必要さをお互いで支えあえることこそに究極の幸せがあるような気がする。



必要な人に必要とされることほど
生きている意味を感じられることって無い。










「あなたしか居ない」っていうのは 私しか居ないって事。 私しか、あなたを救えないから、 私はあなたを捨てられないし絶対に救いたい

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